確か日垣隆の本に『偽善系』とかいう本があったようだ。読んでいないのだが、宣伝文句などから察するに世の中の偽善について批判しているようだ。読んでいないので不正確ではあるが、彼の文章は読んでいて、ヘンなことを書いているライターだと思っていた。
日本人のばあい、「偽善」という言葉に反応する、というか、「偽善」より「本音」「露悪」がうける。私は「偽善」が駄目なのかわからない。すくなくとも「善」がある以上いいではないか。もちろん「悪」が「善」を相殺してしまっては元も子もないので、「善」の比重が高くなくてはいけないが…。
問題なのは「偽」のほうで、ちゃんとやれと批判して「善」の追及をして、善を完結、あるいは統一させればいい話なのである。私は常々そう思っていて、その方向にいけばいいと思うのだが、話は結局「悪」を肯定し、合理化させるだしとして使われてしまう。居直ってはいけないと思う。
柄谷行人と岩井克人の対談(『
終わりなき世界』大田出版 1990年)を読んでいて納得した。
柄谷行人は現代日本人は偽善をいやがるあまりに露悪になっているという話を漱石の言を引きながら語っている。これはいまのネットの掲示板状況をみればあきらかだ。
そして
偽善者は少なくとも「善」を意識し「善」であろうとしているわけですから。ところが、日本人は「偽善のほうを嫌う。自民党の議員が何をしても許すが。社会党や共産党の議員が同じことをしれば、許さない。それは自民党の方が「正直」だからです。
と語り、本居宣長の「やまとごころ」と結びつけて<「漢意(からごころ)」=「偽善」>の批判だという。
それを受けて、岩井は日本人の世界宗教のなさの裏返しであるという。そして世界的なコミュニケーションを拒否しているとも語っている。
善は言語に宿るのだが、実は日本人は「以心伝心」を重視して、他者を拒否しているという。
ずいぶんおおきな話になっているが、なるほどWBCのばか騒ぎをみていると、日本人が身内で自足している姿がみえてくる。