韓国ジャズ界のレジェンド、コロナ禍を経て待望の再来日。
チェソンべ(トランペット奏者)のツアーチラシの惹句である。私は3月15日に稲毛にある「JAZZ SPOT CANDY」
で聴いた。コロナ前もライブはほとんどいってなかったのでハコでライブを聴くのは5年ぶりぐらいではないか。
チェソンべと香村かおり(パーカッション)、梅津和時(リード)とのセットである。香村かおりは韓国の農楽などで使用されるパーカッションを叩いていた。ケンガリというタンバリンをひとまわり小さくしたような金属製の楽器で、高音の鋭い音が心地よくも鋭く響いてきた。
はじめて訪れた店で駅から近いが、まわりは住宅地で意外に静かな環境だ。
後からヘンな曲を集めてコンピにしたのもある。テイチクというレコード会社から出ている「アングラ・カーニバル」というのは、GSとはいえないものも入っているが、アングラ・サイケが流行った時代のぶっ飛んで、くだけた世界が垣間見える。
テーブ操作でヘンな声にして出した曲が多いが、コミックソングというよりコミカルソングなのだろうが、「サイケ・カッポレ」なかなかおもしろい。
10年代の文化を読む
by Lef 3/03/2020 | 1:57 Posted in 未分類, 本・書評 「残念」という言葉をもとに、若者の流行を読み解いていく。それが『一〇年代文化論』(さやわか 星海社新書 2014年)だ。
さやわかというネームは初めて意識したが、当初は「さわやか」だと思っていた。筆者はゲーム史など若者文化をまとめた本なども書いているという。
さて、ここではネットから、ニコニコ動画、ボーカロイド、ライトノベル、アイドル、オタクなどの若者文化が「残念」という概念で語られる。 「残念」という言葉は、否定というよりも近年では「清濁併せのむ」という思想だそうだ。
著者は「残念」という言葉の意味が、2010年前後で変わっているという。そしてニコニコ大百科にある「残念」の文章を引用して、従来のマイナスのイメージから、ネタになったり、個性だったりという肯定的なものが増えてくる、という構図になる。それを ネット~オタクなどの若者文化 から渉猟して確認してゆく。
基本オヤジなので、 著書の主張の失当などは判断できないが 、若者文化を知るという意味からもなかなか面白かった。
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帝銀事件といえば、戦後すぐに起きた 銀行で起きた毒物殺人事件。 陰惨な事件だが、犯人とされた 平沢貞通 は画家であり自白したとはいえ、当時の捜査のあり方やその後は犯人であることを否定し、詳細も本人供述も不明であり(精神的に不安定でコルサコフ病)、とうてい犯人とは思えない。結局は身の潔白を証明出来ぬまま獄死した。
帝銀事件は松本清張の『小説帝銀事件』 新装版 (角川文庫 2009年 初出61年) が有名だ。全体の知るにはいいのかもしれないが、あまりに通りいっぺんで、旧日本軍の関係や占領軍の関与について、突っ込み切れていないのが欲求不満になる。
もっとも説得的に展開しているのが、『帝銀事件はこうして終わった―謀略・帝銀事件』(批評社 2002年)で、犯人についても 具体的に記述している。というよりも、知り合った人間がたまたまそうだった、という奇妙な偶然なのだが、平沢の知人であり、彼により犯人に仕立てられ、平沢はそのグループだったのではないか、という推理だ。
何故か文春オンラインで「なぜ行員たちは乾杯するように毒を飲んでしまったのか――生存者が語った”帝銀事件”の悪夢」(2019年)という記事が掲載されているが、再掲載であり、新情報はない。関係者も亡くなっている以上は難しいだろうが、旧日本軍についての資料や史料などはもう少し解明されてもいい。
https://bunshun.jp/articles/-/12024
●登戸研究所
帝銀事件で使われた薬品は旧日本軍の謀略施設である登戸研究所で、開発された青酸ニトリルである、という説があり、実際に戦時中に中国大陸で人体実験を行った、という。これが正しければ犯人は登戸研究所関係者か、旧日本軍の中野学校の関係者の可能性があったが、上からの指示により、警察の操作はストップしてしまった。
記念講演会 帝銀事件と陸軍登戸研究所
https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00000gn1xj-att/6t5h7p000032n2v8.pdf
帝銀事件と陸軍登戸研究所https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00000gn1xj-att/6t5h7p000032n2vl.pdf
https://bunshun.jp/articles/-/12024
https://bunshun.jp/articles/-/12024
2000年頃だと思うが、都内の居酒屋をあちこちを飲み歩いたことがある。当時は大衆酒場(立ち飲み屋も含め)についてはオヤジの溜まり場程度の認知しかなくて、後になってブームとなることなど感じなかった。それでも人気のある店はチラホラあったし、関連書籍も少しは出ていた。思えば、それによって認識などが蓄積されて、太田和彦、吉田類などがメジャーになっていったのではないだろうか。
さて、大衆酒場・居酒屋めぐりで外せない場所、地域があって、労働者の多い場所や庶民の盛り場となる。例えば池袋や赤羽、大井町、北千住、三ノ輪、京成立石あたりになるだろうか、とくに京成線沿線は駅ごとに渋い酒場が多く、はしごをしていた。
その後は居住地が都内を外れ、郊外へと移ったことにより自然とそれらの居酒屋を赴くことがなくなった。当時から徐々にそのような渋い居酒屋が閉まっていった事も要因なのだが…。それは経営者の事情(高齢者が多かった)や周囲の開発、宅地などの問題など都市にある問題でもある。
京成立石駅も開発を免れていた奇跡の昭和の街だったのだが、私が通っていた当時から、そのうち開発されると噂されていた。有名な「宇ち多゛」は激混みで、鳥の丸揚げの「鳥房」などは若者が多かった。
ひょんなことから、また引っ越して、やや近くなり昔いった居酒屋で「下町ハイボール」なんぞを飲んだことから、たまに行くのもいいなと思った。そんな折あの京成立石駅付近はどうかとネットをチェックしたところ、有名な仲見世のアーケードと反対側の北口駅前周囲は既に取り壊されていた。
駅前にあった居酒屋などそのまま保存しておきたいほどだったが、跡形もない。
絶滅の危機に瀕す横丁。通いつめて集めた、「今しか聞けない」話(婦人公論 21年5月)https://fujinkoron.jp/articles/-/3103