矢野直明の『
サイバー生活手帖―ネットの知恵と情報倫理』(日本評論社 2005年)を読む。
なんだか軽い本っぽく、装丁もお気軽ネット案内のようだが、内容はどうしてどうしてヘビーである。けっこう前の本なので、流し読みしていたら、今でも重要な問題が提起されている。確かにWEB2.0だとかグーグルブックサーチ、クラウド、ツイッターなどはでてこないが、ベースとなる問題設定は変わらない。
それは個人がネットのなかで特定されて裸のままむき出しになり管理される問題だ。
矢野氏は今を「総メディア時代」と考えている。
・すべての組織・人が「表現の自由」を行使する具体的手段を得た
・メディア企業とメディアの融合
・メッセージとメディアの分離
・既存マスメディアの変質
これまでのジャーナリズムの権力チェックの役割について、マスメディアの言論機関としての役割がぼやけて社会全体のジャーナリズムのレベルをどう維持するのか?
「表現の自由」を「個」のレベルから再構築すべき。その点で林紘一郎が提唱する「情報基本権」は興味深いという。これについては『情報メディア法』(林紘一郎 東京大学出版会 2005年)で展開されているようで、それについて突っ込んで考察しているわけではなく、具体的な記述があるわけでもなく、暗中模索するしかない、と書かれているのは、腰砕けだが、問題の所在は明確だと思う。
日本のネット社会のありかたについても的確だ。
歴史学者の阿部謹也が提唱している「世間」という概念は、周囲の狭い人間関係によって成立している日本的な社会のありかたである。この「世間」じたいが、日本人と日本を支えてきた社会資本なのだが、IT技術の進展によりこの「世間」のデメリットが肥大化してメリットの部分は失われるのではないかと危惧している。
日本には欧米にある「個」を確立し、主張する作法や文化がない。だからブログが流行っても、外に向かって発信するよりも、仲間内のおしゃべり、わかる人間だけに発信している、といった色彩が強いという。
この点で2ちゃんねるが典型かも。彼は開かれた場でありながら、無視したり、乱暴な言い方をしたりとずらしのコミュニケーションが良しとされる。公開でありながら、かなり閉鎖的で独特な世界をつくっている。これを歳バースペースの「リトルトーキョー」をつくっていると評している。
この異質な「世間」はけっして現実と交わらないし、現実の「世間」も崩壊寸前だという。サラリーマンの企業の忠誠心、親孝行という子どもの考徳心、これらが特に外国と比して低くなっている、と語る。
また韓国『オーマイニュース』というネット新聞に関するところで、サイト上に意見や反論の場所を設けているが、日本の新聞はそれがないのは記事の署名もないことも含めて卑怯である、と韓国のペソソンスから言われたことを記している。
ネットの双方向性をあまり生かしいない日本の新聞サイトの批判なのだが、これについても日韓のちがいがどこから来るのか、についてつっこんで検討してはいない。そのあたりは不満が残るが、年齢構成の違いを別な識者の意見として挙げていたが、それ以外に新聞の権威のありかたが違うというのがおおきいだろう。やはり韓国は独裁政権―学生運動―軍事政権―社会運動という対抗運動があった、そこの部分がどう反映しているのか、やはり韓国の社会としてはそのような対抗的言論をつくりだす伝統があったのだろう。