ジョージ・A・ロメロ監督の新作『
ランド・オブ・ザ・デッド』を観た。
注(ネタばれあり)
映画の冒頭でスタッフクレジットと当時にゾンビが出現し、世界を覆っている説明がなされ、それ以降はすでにゾンビが支配する社会である。
画面に食堂の看板が見えてゾンビたちがヨタヨタと歩いたり、管楽器を抱えて吹いたりしている(ゾンビは生前の活動や行動をくりかえしたりする、という説明がこれまでのゾンビ映画でなされている)。食堂とは人間のありかを示しているのかと、ブラックな深読みをしてしまった。
そこにバイクにまたがったアウトローのようなチンピラたちが、ゾンビを射撃しながら登場してくる。ここでは意味なくゾンビを殺しているように見える。これはいままでのロメロの映画でも繰り返しでてくるシーンだが、ゾンビを撃ち殺したりすることを、まるでゲームのように楽しんでやっているのである。去年公開された『ドーン・オブ・ザ・デッド』にでてくるゾンビのようにすばやく動くわけではない。あくまでヨタヨタ、たよりない歩きなのである。また、弾をよけたり、逃げたりする知能はない。ただ人間を食うだけだ。だからがんがん撃ちまくって、通りぬけるさまが虐殺をおこなっているように見えるのだ。
チンピラとおぼしき連中は川に囲まれた都市(ニューヨークか)からごみを捨てにきて、物資も運んでゆく。いわば汚れ仕事なのだろう。その都市は川に囲まれていることによりゾンビから隔離され、かろうじて人間社会を維持しているが、実態は特権階級がメインタワーに住み、ゴーストタウンとなった周辺部に貧しき人々が生息するという階級社会なのだ。その周辺部からメインタワーの居場所を得ようと汚れ仕事をつづけてきたチンピラたちは、街を仕切っているトップからその願いを拒絶され、兵器を奪いテロリストとしてタワーを攻撃すると脅す。
チンピラは結局はゾンビに襲われて、ゾンビとなるしかないのだが、そのとき仲間に殺してもらうかどうか問われて、「ゾンビになるのも悪くない」と語り、いままで忌み嫌っていたゾンビになる覚悟をきめたのだ。絶望のなかでの選択なのかもしれないが、妙にリアリティがあった。
たとえゾンビになるとしても殺されるのはいやだし、ゾンビになる直前まで人間なのである。
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