ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞はいろいろ波紋を広げているようだ。ディランくらいになると「何を今更…」「ようやく体制も認めたか」的な声があるだろう。なんだかんだいっても賞よりもディランの存在のが大きいので、どうも無理やり的な感じがする。この点でいえばノーベル賞を押し付けた、とも言えるのではないか。
だいたい賞をというものは授与するほうが権威で、授けるということから受けるほうはありがたく受けるという図式なんだが、ディランの場合だとそうなっていないので、「別に…」という沢尻エリカのような台詞が出てきそうだ。
ディランの対応も、やはりディランらしい(を演じているのかもしれないが)ということで、ともかく相手を裏切るというか、理解されたくない、という意識がかなり出ているようだ。
『「俺はここにいるさ」とおどけた様子で話し』たというが、一方で「機会があれば出席したい」というのは不思議でもある。普通ならば何を差し置いても、というのが世間的な対応な筈だ。「機会があれば」という台詞は通常は「行きたい気持ちはあるが、事情があるので行けない」という含意のある拒否のセンテンスだ。
なにやら日本人の使う曖昧かつ、婉曲な表現のようだ。いろいろ誘われても、直接に行けない、とか駄目だ、というと角が立つので、「時間が開けば」とか「暇になれば」とかの枕言葉をつけて基本的には否定するというのが一般的なのだが、ディランもそれに倣ったのだろうか。
ボブ・ディラン ノーベル文学賞受賞会見なし…授賞式出欠も不明
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/11/05/kiji/K20161105013662000.html
記者会見は12月6日に設定され、各賞のイベントと共にウェブサイト上で予定が公表されていたが、既に削除された。ディランが12月にストックホルムに来るかどうかとは無関係だとしており、授賞式への出欠は依然不明。
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/10/30/kiji/K20161030013626110.html?feature=related
アカデミーは今月13日に授賞を発表。ディランに再三連絡を試みたが本人に接触できず、アカデミーのメンバーからは「無礼かつ、傲慢(ごうまん)」との批判さえ出た。
ディランは、インタビューで沈黙を続けた形になったことについて「俺はここにいるさ」とおどけた様子で話し、詳しい理由は明かさなかった。
沈黙を続けた理由について、音楽評論家の富澤一誠氏は「推測だが演出ではないか。すぐに受賞の意思を示すのは彼のイメージでない。いつまでも引っ張るのも良くない。今がちょうど良いタイミングと考えたのかもしれない」とした。過去に米ロサンゼルスでインタビューした経験を振り返り「キャデラックで送迎され、行き先も告げられず身構えたが、彼はタバコを吸いながらラフな調子で話してくれた。彼自身は何も考えておらず、周囲が勝手に忖度(そんたく)しているだけの可能性もある」とも話した。
反権威の信条から名誉ある受賞を固辞しているとの臆測もあったため、ネット上では「拒否したら格好よかったのに」「がっかり。日和った印象」などの声も上がっている。