大学が産業に奉仕するようになって久しいが、国立大学の独立行政法人化でそれがいっそう促進されたと思う、その発想の元が構造改革=新自由主義だが、大学は学問を究めるところで、そもそもそれがなじまないものだった。
たまたま花見で大学の授業料の話をしていて、西欧では無料であったり、学生が金を払うどころか生活費などが支給されている例があるのだが、たまたまイギリスでは大学の授業料の上限が60万に引き上げられた、という話をしたら、そこにいた大学院へ通っている友人は年間80万は払っているといっていた。
ことほど日本では教育に金がかかるということになっている。
誰も、そのことは疑わないようだが、それでいいのかと、大学の利益優先のありかたや産学協同体制を憂う本がある。『
ネオリべ現代生活批判序説』(白石嘉治・大野英士編 新評論)がそれだ。
ネオリベ(新自由主義)がつくりだす主体喪失や「マクドナルド化する主体」=リッツア「マクドナルド化する社会」(早稲田大学出版)=<権威への恭順を進める主体>という話が興味ぶかかった。資本主義の市場万歳状況に対抗するには大学という、伝統的な知の根拠地から出発するしかないのかもしれない。