藤竹暁の『大衆政治の社会学』(有斐閣 1990年)を読む。
群集心理学の成立=ギュスターヴ・ル・ボンの紹介からはじめるこの本は、その後のこの系譜の学者たちを歴史的に紹介したものだ。ル・ボンのいちばんの成果は『群集の心理』という評価らしいが、それ以前にもいくつかあって、ル・ボンの学業が無視されているという、それはムッソリーニと親交をもったゆえではないかとの解釈をうちだしている。
結局は<大衆の誕生=平等幻想=民主政治=混乱>という否定的見解となるようだ。おおもとを読んでいないのでわらからないが藤竹によると社会主義思想の浸透をおそれていたようである。
レーニンがフランス語でル・ボンの本を読んで参照していた、という指摘はおもしろいが、どの程度参考にしたか、あるいは反映があるかはよくわからない。
レーニン、ムッソリーニ、ヒトラーなどの指導者たちとの関連もおもしろい。ル・ボンの考えをどのように摂取し、利用したかは興味あるところだ。
人間は心理的群集になかに身を投じると、人びとの知能や個性は消えうせる。異質なものが同質的なもののなかに埋没するのである。こうして無意識的性質のみが支配的となる。ル・ボンが人間は群集の一員になると文明に階段を幾段階も下がってしまう。
このような表現はやはり、ヨーロッパの階級的な没落、あるいは栄光の知識社会の権威が通用しなくなる悲哀を含んでいるのではないだろうか。
群集とは
・群集における自我の喪失
・精神的感染状態の成立
・一種の催眠状態であり相互暗示作用がある
群集のなかにあっては人間は自己を喪失し、知能にしたがって個性を失い。無意識に支配され個人とは異なる精神状態が形成されて、容易に行動に移りやすい。
この点で群集は凡庸の集合体である。
ただし進行や思想のために身を犠牲にすることもあり、名誉や栄光のために熱狂的になることもある。群集は歴史をつくる英雄的行為にも従事する。
この概念としては大衆社会というよりも、それ以前の人間社会の群集としての側面を指摘したものともいえるのでは。
ル・ボン以後の学者としてミヘルスをあげるが、これはさらに悲観的な観念を重ねる。
・目的を達成するには組織が必要で、組織は職務の専門分化を生み出し、その結果リーダーシップを必要とする。
・大多数の市民は公共の問題に関心を持たない。ゆえに考慮する人が市民・大衆を指導する。
・人間の能力・関心には不平等があり、政治は結局のところ少数者の支配となる。
これは政治学者のプライスの近代民主政治概念で、さらに「民衆の政治監視能力の強化」を可能性として見出した。
基本的には政治は寡頭制支配となるが、それが民主的なものとして運営できるかどうかとなる。
ミヘルスは大衆をみるものとして
ボンの「群集心理」を論拠として、大衆が常に指導者をもとめるものとして描き、結論づける。
「政府、あるいはそう呼びたければ国家は、したがって、つねに被支配者大衆に対する支配と搾取の関係を維持する必要から生まれた『法秩序』を、社会の他の成員に押し付けることを目的とした少数者の組織にすぎず、決して多数者の代表ではありえないし、そう考えることさえもできない。多数者はつねに統治することは決してあり得ないし、またできもしないであろう」
結局のところエリート階層の支配にいきつくわけだが、この点などは社会主義、資本主義に関わらず、最終的政治支配は官僚制の支配になると主張した元トロツキストの社会学者などとおなじものとなる。
マックス・シャハトマン他。彼はトロツキズムの党派社会主義労働者党―第四インターナショナルから、独ソ不可侵条約締結とソ連邦によるバルト三国侵攻を期に、ソ連邦の国家性格やその「帝国主義からの防衛」の是非をめぐってトロツキーらと論争し、社会主義労働者党から分裂してアメリカ労働者党を結成する。彼らの考えがそのようなものだった。