アドルノの大衆文化批判については、これまでも時代に合わないとか、きわめて狭い範囲を語っているとか、その言説事体が批判されては来たが、かといってオプミスティクに大衆文化を称揚する知識人は少なかったと思う。もっともそういう事体の時はその文化と利害関係が発生していたりして、そのような文化を擁護することによりお金が入る(権威者として振舞ったりする)システムになっていて、それはそれでわかりやすいのだが。
毛利義孝はポピュラー音楽(大衆文化)に「アドルノ的認識の回帰」が必要だという。
『ポピュラー音楽と資本主義』(毛利義孝 せりか書房 2007年)で、資本主義社会のなかで大衆文化としてのポピュラー音楽と経済(音楽産業)の関係を考察するうえで、「アドルノ的認識」に立ち戻り、そのうえでポスト・フォーディズム社会へと変容していった現代の状況のなかでのJポップやポピュラー音楽全般を捉えなおしていく。
大学の講義ノートが元になっているようで、たいへん読みやすい。
思ったのは資本主義社会のなかで商品流通などの制度が貫徹していくのはあくまで市場を通じておこなわれていくのだが、それ以外。たとえばクチコミとか狭い共同体・コミュニティのなかで流通するものは独自に発達・流行する、ということ。
たとえば穴開きのジーンズやズボンの腰ばきなども、今では立派な商品スタイルとして市場にでているが(腰ばきは商品ではないが‥)、もともとは仲間内での相互の確認作業というかしるしみたいなものだった。
音楽のような感性的な文化商品については、絶えず資本の制度を超えた、予測不能な部分が含まれるし、またそれがなければ発展していかないだろう。ただ、それが流通して市場に普及しだすとそれが制度として回収されてしまい。作品そのものが輝きを放つときが少ないか、稀になるということだろう。
それを乗り越えるため、あるいは流通を増やすために専門家たちは絶えず、アンダーグラウンドなものにも目配りをしているし、あたらしい動きに敏感である。その意味でこの本では、ポップアートと音楽の部分など大甘な評価という気がする。
以前読んだ『ロック雑誌クロニクル』(太田出版)で、若者向けの雑誌であった「宝島」が、インディーズのバンドなどを応援しようと紙面構成を常にしていたが、登場する若手バンドメンバーたちが、だんだんとロック産業としての枠組みにハマり、かなりビジネスライクに対応することに違和感を感じていったという話があった。いわば学生ノリ的な意気投合して、勢いで通じる部分がすくなくなっていったことで、雑誌をつくっていた編集者が醒めっていった経緯などが語られていた。
これなどは「アドルノ的認識」をさせられた例といえるのかもしれない。もっとも市場として成立していない未分化の文化(商品として未熟な)が、創造過程にあればエキサティングであろうし、おもしろいだろうが、市場と商品流通がみえてパッケージとして商品をおくりこむだけであればその部分が殺がれるのは仕方ないだろう。
ただ、それはそれで別のおもしろさはある。アドルノもそうなんだけど「資本主義社会だけど、それが何か?」という問いの前に、二の句が告げるかどうか、なのである。
今の中国の資本主義バンザイ・新自由主義路線とそれに狂喜して金もうけに腐心している中国の人々をみていると、独裁体制であることと資本主義は矛盾しないないし、むしろプラスなのかもしれないと思う。
絶望の果てに何をみるかだけど、ホリエモンを夢みるか、消費の快楽に身を浸すか。
ポピュラー音楽についての実践として、著者は両義性をみて<対抗的にもなると同時に反動的にもなる>可能性を秘めている、と語るが、それはトートロジーとなっていないか。ポピュラーが即時大衆であれば、ただの現在の確認だし、大衆の姿に他ならない。だからこそ<大衆>音楽=ポピュラーなのである。