井上章一の『邪推する、たのしみ』(福武書店 1989年)に梅棹忠夫との対談が収録されている。「美人論」をめぐっていろいろ話し、おもに井上が説明しているのだが、美人への対応や扱いの変遷があり、けっかとして近代では一億総美人論が成立していて、戦後民主主義の気分やら、価値の多元化、情報産業化の説明がなされる。
つづけて梅棹は「男も美容に気をつけないといかんということですな」とか、「すべて一種の文明化現象である」と語っている。
文明の新段階にたいして、資本主義も共産主義もみんな同じように適応せねばならない。私は文明論的にそうかんがえている、とも語っている。
これを読んでさいきん上海を旅行して、観察した女性たちのことを思い出した。
まだまだ中国は貧しい国だが、上海だけは東京を超えるような都市として成長してきた。しかしそこに暮らしている女性たちも、素朴はかんじのひとが多い。
茶髪や指輪や装身具が少ないのである。ましてや頭にヘンなものを載せたりしたファッションもない(一部日本の影響でゴスロリファッションも流行っている、という情報も得たが、あいにく旅行中には遭遇できなかった)。ましてや女子高生のガングロメイクやヤマンバファッションもない(もちろんあれが、進化した憧れのメイクであるのかどうかは問わない)。
いちど地下鉄の電車のなかでセンスのいいチャーミングな二人ずれの女性をみて、中国にも日本にいそうなギャル風ファッションの娘(もえちゃん似)が出現しているのだなとおもい観察していたら、ふつうの日本語で会話をはじめたのでガッカリした(たぶん留学生なのだろう)。
このようにまだまだ日本から比較すると地味な女性ばかりだが、そのうち差はなくなっていくだろう。これはたんに経済主義、美容産業の発展だけではないという。
そのまえの文章で「イエ社会は、一種の利益共同体ですから、利益を優先させて後継者の嫁もきめていく」という文がある。
この「利益共同体」というものは、けっこうながく続いているのが現実ではないかとかんがえている。
たとえば現状をみても公務員、役人が特権や天下りをつくったりするのも利益共同体ゆえのことだし、労働者一般であっても大企業と中小ではちがいがある。ましてや正規労働者と非正規では共同体としては分裂している以上、待遇のちがいや給料のちがいがあってもなかなかともに連帯・共同するわけにはいかないだろう。
もちろん理念的、倫理的にはそのほうがいいだろうが、利益共同体の観点からみれば、えげつない話だが分け前がということだ。経営者から「会社に金はない。きみたちの給料は高いので、そこから非正規のぶん分けてあげたら‥」といわれて、正規社員が素直に分配するだろうか? まず無理だろう。
しかし目の前のちいさな(うしろめたい)利益を享受するよりも、もっとおおきくて魅力のある(?)利益を獲得するほうが賢いのは明白だろう。長期的、理性的な目があれば連帯・共同できるはずだが、めんどうくさいってことなんだろうな。
歴史的にかんがえると労働者というものも抽象的概念ではなく、個別具体的に存在しているわけで、それを無理に典型として設定したり、利益を共有するための調整があったりする。
実体社会では個々の労働者や労働者層のあいだで利益が対立するばあいがある。それを経営者は利用して裁量労働制や派遣労働者やホワイトカラーエグゼンプションや成果主義を導入したりする。
労働組合じたいは、すべての労働者の<賃上げ=春闘>という対抗軸をつくって労働者を糾合してきたわけだが、企業間格差や組合組織率の問題でぜんたいとして後退している。
結局はせまい餌の取り合いをしていることの限界が指摘されているのだ。